どうも皆さまこんにちは!
当店のHPのご閲覧ありがとうございます!
さて今回は歴史のお勉強回です。
なかなかの長丁場になりますが、お時間ある方は是非読んでいただけると幸いです!
さて皆さま、STIをご存知ですか?
皆様がイメージするのはスバル車のグレードの名称だったり、
アクセサリーの名称だったりではないでしょうか?
実際半分は正解です。
では今回は残りの半分や成り立ち、小話をご紹介いたします。
STIとは「Subaru Tecnica International」の略で、
SUBARUのモータースポーツやスポーツパーツ、コンプリートカーの開発を手掛ける
SUBARU直系の企業です。
昨今だとSUPER GTで SUBARU BRZが活躍してますよね!
あのレースカーのチューンアップや開発などもSTIがしているんですね!
またその開発をもとに車のスポーツパーツの開発へ役立っているんです!
では過去にさかのぼっていきましょう!
そんなSTIを立ち上げに関わった一人をご紹介いたします。
その人の名は古関典幸さん。彼のおかげで今のSTIの根幹があったといえます。
1959年、高卒で富士重工業に入社した古関さん。
高校の時から日本中をバイク一つで旅をするほどのバイク好きで
運転や車両評価のスキルが高く、車内でも頭一つ抜けていたほどでした。
その古関さんは車両実験部という走行のテストをしたりする部署に配属されたのが事の発端。
そこからスバルブランドの確立をしていきました。
戦後まもなく、ホンダ創業者の本田宗一郎により
「レースの勝利とモータースポーツの普及のためには本格的なサーキット場が必要だ」
とのことで鈴鹿サーキットが開設。本格的な4輪レースが始まりました。
その翌年に日本初の専用舗装コースによる4輪レース、第一回日本グランプリが開催。
スバル陣営では急遽の開催のため、準備期間が短い中、社内テストドライバー兼群馬の峠で激速だった古関さんや社外ドライバーとして2輪のプロだった大久保力さんを抜擢し、そのほか自社社員もとい選手で参戦しました!
レースは400ccクラスと700ccクラスの2部門で分かれ、それぞれ
スバル360とスバル450で参戦。
しかしスバルの監督は「スバル450でトヨタのパプリカに勝ったらかっこよくね?」
なんと700ccもあるトヨタパプリカに挑もうとしたのです。
それを聞いた社員はなぜか奮起し、レースに臨みました。
結果としては上位をトヨタのパプリカに取られてしまいました。
しかし我らがスバル社員は「パプリカには負けたけど三菱500に勝てたのすごくね?」
とその日の夕食会はポジティブな彼らにとっては次の作戦会議となったそうです。
次回の2回目に向けスバル陣営は榛名山の有料道路を貸し切り、テストコースにして準備をしていきました。なんともスバルの技術者ジャンキー感がでてますね。
前回の結果を踏まえ、スバル360で400ccクラスに絞り込み、優勝を目指すことに。
まずレースで勝つために峠で車をテストドライブしチューンアップ。またテストドライブしてチューンアップの繰り返して行きました。
そして迎える第2回では見事1位、2位を大久保さんと古関さんで飾りました!
これを起点に古関さんはモータースポーツで走りを磨き上げることこそ車の性能を高める最善手と考えるように。
しかし次年度の大会内容が大きく変わり、高性能スポーツカーのプロトタイプのみによる変更がありました。
当時スバル車ではスポーツカーのラインナップがなかったため泣く泣く参戦できず…と思いきや
あきらめきれない古関さんとそのチームはフォーミュラカーを自作して前座に参加したり
新型スバル1000でレースに出たりとしますが、スバルチームとしてのレースの参戦は数が減っていきました。
しかしモータースポーツを諦められない古関さんは個人でモータースポーツ活動をしたほうが早いと考え
1964年に上州オートクラブを設立し、「モータースポーツで車は進化する」ことを個人で立証しようとしたのです。
そこで当時のスバル車はラリーにうってつけと考えた古関氏はラリーをメインにし、
日本アルペンラリーというラリー大会に参戦していき、腕と車を鍛え上げていくのでした。
その際にペアを組むことになったのが、後にSTIを立ち上げることになる高橋保夫氏、久世隆一郎氏です。
そこで活躍したのがスバル1000!前身の中島飛行機のエンジニアが設計や開発したため、航空機製造技術に基づいたユニークかつ合理的なエンジニアリングを詰め込んだ車でした!
他メーカーも真似することのできない唯一無二の技術だったんですねぇ。
さらにラリーで活躍できるよう前輪駆動を採用し、コーナリングの安定感を実現したそうです。
さらにこのころ古関さんはスバル車輛実験部のリーダーで、
しれっと開発側に趣味として参戦したラリーからのフィードバックを反映して車の進化に役立てていたそうです。
こういった改良が相まって1970年に「スバルFF-1 1300G」によってスバルのラリーの地位を確固たるものにしました。
ここからこのスバルFF-1 1300Gと古関さんのチームはスバルプライベーターチームによる
スバルのラリー伝説が始まっていくのでした。
FF-1にて初参戦年の1970年には2000cc以下のクラスで優勝。さらには翌年の1971年でも優勝と二連覇!
当時の激戦区の中2000cc以下のクラスのラリーではスバルは無敵と言われたほど。
その後も世界中のラリー大会に参加していくのだが、当然資金の問題が立ちはだかりました。
海外参戦したときには地元のスバルディーラーがスポンサーとして資金援助してくれましたが
それ以外は古関さんの自腹で資金をやりくりしたり、自身の時計やカメラを売却してでも参戦していたとか…
その状況を見ていたスバル側は40日以上会社を休んだら机はないものと思えと告げられましたが
ここは鋼のメンタルの古関氏、バリバリ有給使ったりしてラリーに参戦していたんですね。
その当時古関さんが自腹を切って参戦したレオーネ4WDの功績は大きかったんです。
ロンドン~シドニー間を走りきるという当時の最長レースでも堂々の4位を記録!
小型セダンの4WDでも走破性の良さやセダンという高速の走行性能+4WDはモータースポーツでこそ生きると立証したんです。
これが今のスバルのAWDのきっかけにもなったんですね。
まぁなんだかんだあってラリーに参加しすぎていた古関さんは大会明けに会社に行くと
案の定デスクが取り上げられていたそうです。
そこで当時の社長にロンドン~シドニーラリーの功績を褒められたものの
身勝手な行動が多すぎるため今までの業務を外されましたが、
ラリーとテストドライブに専念してもらうようスバル直属の請負会社を用意されました。
いわばラリーの専念とスバル車の進化に貢献してくれというものでした。
その会社こそが今のSTIの前身だった「スバルモータースポーツグループ」なんです!
その後も紆余曲折を経てスバルを今なお支えるモータースポーツブランドのSTIが出来上がっていくんですね。
いかがでしたでしょうか?
私たちのカーパフォーマンスを支えてくれていたSTIは古関さんの活躍や
こんなに面白い歴史があったんです!
私も記事として書いていく中こんなに長くなるとは思いもよりませんでした!!
もしSTIについてもっと知りたい!スバルのこんなことが知りたい等ございましたら
是非遠慮なくリクエストください。
では今回はここまで!
ご閲覧ありがとうございました!